「しょうがい」という書きかた
このHPをご覧くださっているかたは 文中の「障害」ということばが 障害だったり 障がいだったり しょうがいだったりすることに 気がつかれていると思います。
 
私が 自分のことばで書く場合は ある時までは 「障がい」と書いていましたが 今は 「しょうがい」と書きます。
私の文章でも 例えば「障害者センター」 のような固有名詞の場合は そのまま「障害」と書きます。
私以外の人の文章 本やHPなどからの引用 掲示板の書き込み等は 書かれたかたの書き方で そのままを載せることに しています。
 
なぜ 私が 「障害」を 「障がい」 そして 「しょうがい」と書くようになったかは まず私のウェッブ日記時代の 文を読んでいただけますか。
 
 
2002年4月27日 「ねこのあしあと」より
 
 
今日は 出だしに困って また他人様の日記よりエピソードを拝借。P様お許しを。
そのかたは「寝ているところを起こされると非常に腹が立つ」そうで。
へぇ〜 私 それは全然平気。
私が 腹立つのは 嫌いなのは 話のコシを折られること。
はい ワタクシ それほどうぬぼれてはいませんから そんなにすばらしいことしゃべってるわけじゃなし 私が「。」まで しゃべり終わるのを待って 「それはそうと 話違うけどぉ」
とでも切り出してくれれば 「えっ なに なに」って そっちの話にスムーズに移行できるのに。
時々いるのねぇ。
私が「。」まで しゃべり終わらないのに 全然別の話題持ちかけてくる人が。
それも「あっ お子さんが 池に落ちそうですよ」なんてことならともかく どうでもいい くだらない(と 私には思える)ことを。
何を隠そうおとうちゃんが しょっちゅうではありませんが これをやらかしてくれまして。
私は 例え夫婦でも 自分の好みを押し付けてはいけないと思っておりますが この件だけは きっぱり言い渡しました。
「アタシの話のコシを折るな。もし 破ったら……コロス」
(それくらい 嫌いなんだもの)
 
この日記を読んでくださってるかたは もうお気づきでしょうが 私は「障害」を「障がい」と書きます。「害」と言う字が 嫌いだからです。
本当は 嫌い以上の理由があるのですが まだ考えがまとまっていないので…
中途半端なことは書けないので まとまるまで待ってくださいね。
私の頭じゃ 一生かかってもまとまらないかもしれないけど。
 
で ある人のHPに「害」と言う字が嫌いなので使いません。と書いたら 管理人さんがどっかの県では 行政の公式文書で「害」の字を使わないことになったと教えてくださいました。
また アメリカでは 障がいを持ってる人のことを「チャレンジド」と言うとも。
「チャレンジド」なるほど。
私が 敬愛する人のHPでは 「メッセンジャー」と言う言葉を紹介していました。障がい者は何かを伝えてくれる存在だからだそうです。
あと「スペシャル・ニード」と言うのも良いですよね。
 
私も 一時どうしても「障がい児」と言う言葉を使いたくなくて 「うちの子達は ハンディを持っています」と言っていたのですが 電話なんかだと「えっ 何を持ってるんですか」と聞き返されることが多くて。
仕方無しに 「障がいを持っているんです」と言うと相手の人が かわいそうなくらいうろたえて「ごっ ごめんなさい。良く聞こえなかったもので…」なんてことがよくあったので 最近では 最初から「障がい児」と言う言葉を使いますが。
私は 気持ちの中では うちの子達は「ハンディを持った普通の子」と思っています。
だから その気持ちを逆なでするような「普通学級」「健常児」と言う言葉も好きではないのですが 嫌いだからと言ってそれにかわる言葉もなく 相手に伝わらなくなっちゃうので
嫌々使っています。
 
相手に伝わらないと言えば 私は言葉を省略して使う癖があるので 「児相」とか「就検」とか。
聞き返されて 「児童相談所」「就学時検診」と言いなおしますが…
健常児の親と私では 同じ言葉でも 言葉の持ってる意味が違うのだなと感じます。
健常児の親にとっては「児童相談所」は 「親に虐待された子供が保護されるところ」で 「就学時検診」は「入学前の身体検査」なんですよねぇ。
ちなみの私の古いワープロは 「しゅうがくじけんしん」と入力すると「就学事件心」と変換しました。
まさに その時の私の想い そのままに…
 
そう 言葉の持ってる意味。
「障害」を「障がい」と書き直そうが 「チャレンジド」と言いなおそうが 言葉の持ってる意味 言葉に込められた思いが 変わらなければ何も変わらないのかもしれませんが。
 
先日 とら君とみけ君と一緒に本屋に行きました。
みけ君は いつもどおりご機嫌で ひとりごとを言いながら絵本を見ていました。
ひとりごとと言っても 「うるさい」と耳をふさぐほどのものではなく 春のレンゲ畑で
蜜を吸う蜂がぶんぶんいってるくらいの音です。
そこへ 小学3年くらいの女の子が ふたり来たのですが ひとりがもうひとりにみけ君を指差して「しょうがいじがいるよ」と言ったのです。
心臓 グッサリでした。
言い方があどけない分 残酷さがきわだつというか…
もし 「これが チャレンジドがいるよ」だったら 私のショックと哀しさも違っていたでしょうか。
う〜ん 難しいなぁ。
ただ 言えることは 言い方を変えるだけじゃなく それに込められる思いも変えなければということでしょうか。
 
出だしに困った 今日の日記ですが まとめにも困っています。
今日書いたのは もちろん「私」が 嫌いなことということで 「障害」と言う言葉を 嫌いな人 好きな人(?) 何も感じない人 むしろその言葉にこそ何かの思いを込めたい人 さまざまでしょうから 「さぁ あなたも 『障害』と言う言葉をつかうのをやめましょう」と言ってるのでは もちろんありません。
ただ 子供たちの幸せを祈る一人の親が こんな形を子供の幸せの形として考えているということだけです。
 
今日も 最後までお付き合いくださいまして ありがとうございました。
 
 
 
この文章を書いたあと 色々な人から ご意見をいただきました。
やはり 「害」という字は使わないという人
「障害」という書き方に 自分なりの解釈のある人も 自分なりの思いを込めている人もいました。
 
そして いただいたご意見の中に 「害」だけではなく 「障」も 良くない意味だというものがありました。
また 「ハンディ」というのも その語源は 良くないと教えてくださったかたもいました。
それで 私は 以来 「障がい」を「しょうがい」 と 書くことにしました。
 
ただ 上にも書きましたが これは 皆様に 強制しているものではありません。
しょうがい児たちの母である私が こういう風に思っているということです。
 
実は そういう考え方なら 「障害」という書き方を改めてもらえる 社会的な運動にされたらどうですか というご意見をくださったかたもいるのです。
 
ですが しょうがい児の親御さんでも 「障害」ということばに いろんな思いを持っておられる以上 それをひとつにまとめて 社会運動にするなど とても非力な 私の力の及ぶことではなく こうして自分のHPで ささやかに メッセージを発信し続けるということのみになっております。
 
 
更新日時:
2002.12.02 Mon.

心の力
こどもたちが 世の中で「楽に楽しく」生きていくためにに 親として私のしたいこと。
 
こどもたちが これから歩んでいく人生を 「道」に例えたとき こどもたちが転ばないように 道から石ころを取り除き 足にあったスニーカーを与え 足腰が丈夫になるように鍛えてあげなければ と思います。
 
道から 石ころを取り除くというのが 世間の人に 「自閉症」や「知的しょうがい」について 正しい知識を持ってもらい 正しいフォローの仕方を知っていただくことだと思います。
 
スニーカーというのは 子供たちを助けてくれる色んなツールでしょうか。
そして よく言われるのが 身体しょうがいの人を補助する車椅子に相当するのが 知的しょうがいの人にとっては 「人」であると。
だから 子どもたちのまわりの 人を耕し 地域を耕さなきゃいけないのですね。
 
足腰を鍛えるというのは こどもたち自身の能力のアップだと思います。
単に 読み書き 計算力もだけじゃなく 人との関わりあい方 お金の取り扱い 乗り物の乗り方 料理 電話のかけ方 etc etc 
教えたいこと 教えなきゃいけないことは 本当に山ほどあります。
 
でも…いくら 用意周到に周りを固めてあげても 人生転ぶときは転ぶんですよね。
こどもたちが 転んだとき 私が助け起こしてあげられたらいいけど そうできないとき必要になるのは こどもたちが 自力で起き上がるうとする気持ち 「心の力」じゃないでしょうか。
 
「心の力」って言うのは 結局 「自信」のことじゃないかと思います。
何かが原因で 「ああ 自分は だめなんだ」 と 自己嫌悪と絶望に苦しむとき
「あなたはだめじゃない。私は あなたの味方だよ」と言ってくれるのが 家族・
親友・先生と言うものではないかと思います。
 
だけど いつも そういう 周りの人に恵まれるとは限りません。
そのときは 自分で自分に言ってあげるしかないでしょう。
「私は だめじゃない。世界中の人が私を見捨てても 私は私の味方だわ」と。
そういう気持ちがあってこそ どんなつらい境遇でも 顔を上げて背筋を伸ばして 生きていけると思います。
 
もちろん 無から自信は産まれないでしょうから 小さなことでも こつこつやり遂げて その結果だけでなく がんばったプロセスをほめてあげる それを 自信につなげていく。
 
これは こどもたちを育てるとき 私の目標のひとつであり 私自身が 人生を生きると言うことの意味であるような気がします。
 
こどもたちに自信をつけてあげるためにがんばり そのことが 結果として 私の自信になる…なんだか 自分のしっぽを追いかけて くるくる回っている犬のようですが(笑)
更新日時:
2002.12.15 Sun.

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Last updated: 11/09/09

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