死が優しい友達の顔をして
 
私は 昔 精神状態が非常に悪い時期がありました。
 
こねこたちが 一応地元の小学校にはいり 
小さな問題は 数限りなくありましたが なんとか毎日通学し。
就学前のように 下手をすると どこにも行き場がなくなるという不安からは 
開放されるのと 同時に それは やってきました。
 
当面の大きな問題はクリアし 
だけど 将来の見通しがまったく立たない不安と
それまでの心の疲れが一気に押し寄せてきたようでした。
 
病院で はっきりした診断名をいただいたわけではないので 
名前はつけませんが特徴として
 
「何かをしなければいけないという非常に
あせる気持ちがあるのに 何をしたらいいかわからない。」
「体が 思うように動かない。」
「人の集まるところへ 行きたくない。」
「夜は 眠れず 昼は うつらうつらと 眠くなる。」
 
こんな状態を 傍から見た時は 
ただぼんやりと過ごしているように見えたようなんですが 
実は 私は 内心 ひどい焦燥感と自己嫌悪に襲われていました。
 
こんな無為な日々を送っていてはいけない。
何かしなくちゃいけない。
でも 何をしたらいいのかわからない。
心も体も動かない。
どうしよう どうしよう。
 
そして なによりの特徴として 
いつも「死」を 考えていました。
 
「死にたい」わけじゃなかったのです。
ただ 「生きること」が たまらなく つらかった。
 
強すぎる日差しと紫外線が 皮膚をじりじり焼くように 
その頃の私は 「生きる」ということが つらくてたまらず 
そのつらさが 私の心をどんどん圧迫しているようでした。
 
その苦しさに あえいでいるとき 
「死」が まるで 「優しい友達のような顔」をして
いつも 私の隣にいました。
 
「死」は 無言で優しい微笑を浮かべながら
両手を大きく広げて 私を誘うのです。
「さぁ 飛び込んでいらっしゃい。苦しみから解放されますよ」
とでも いうように。
 
怖かったです。
心の底から 怖かったです。
「死」が 大きな鎌を持った骸骨の姿をしているのなら 
私は一目散に 逃げ出したでしょうけど。
それは 甘美な誘惑でした。
 
思わず そちらに 引き込まれそうになるのを
全身の力を 振り絞って抵抗しなければなりませんでした。
 
その頃 よく言われた
「自殺する勇気があるなら 生きることなんて なんでもないことだ」
は 私には まったく見当はずれの言葉でした。
 
自殺する勇気なんていりません。
ふっと 目をつぶり ああこれで楽になれるとつぶやきながら 
「死」に もたれかかればよかっただけです。
私は その誘惑を 全身の「勇気」を 振り絞って 払いのけていました。
 
また 
「今日 一日を がんばって生きましょう」
これも 私にとって 意味無い言葉でした。
 
一日なんて 長すぎました。
息を吸って 1回。
吸った息を吐いて 1回。
この繰り返して なんとか 時間をやり過ごしていました。
 
こういう状態の時
「がんばって」という言葉が 禁句なのは
よく言われることですが
私は 「がんばらなくてもいいよ」
という 言葉にも 非常に落ち込みました。
「あなたは がんばるだけの力が無い」と
言われたような気がしたのです。
 
あるいは
「あなたの悩みはまったく理解できません」
も 嫌でしたが
「あなたの悩み 本当によくわかりますよ」
にも 腹が立ちました。
 
「私の悩みは そんなに簡単にわかっちゃうほど 単純なものではない」
と 思ったのです。
 
結局 そんな状態から 長い時間をかけて
ゆっくり心が再生していったのですが。
 
今 振り返って思うのに 私にとって
なにより 心の再生に 有効だったのは 
他人から与えられる「理念・概念」ではなく
自分の五感で感じる「実感」
それも 楽しい 嬉しい 心地よい「実感」でした。
 
綺麗なものを見たり おいしいものを食べたり 大好きな音楽を聴いたり
新品の洋服に手を通したり
こどもたちの歯が生え変わって
「あっ ちゃんと 成長しているんだ…」
って 驚いたり。
 
そんな 小さな「実感」を いくつもいくつも
限りなく積み重ね ふと 思うのです。
 
「生きることは それほど ひどいことばかりでもない」
 
ただ これを読まれたかた昔の私と 同じ状態の方 
あるいは その周囲の方が
「よし。では 楽しい『実感』を たくさん感じよう。
感じさせよう」
なんて 無理にがんばっちゃわないでくださいね。
 
まず これは 私 一人の体験談です。
医学的な裏づけはありません。
 
それに 普通に考えたって 
「楽しい」ことって 本人が がんばったり 周囲ががんばらせて 
「感じるものではない」
と思います。
 
日々の生活を 真っ黒に塗りつぶされた心であえぎながら 
暮らしているとき ふっと 何かの折に感じるものなのでした。
 
ちなみに 今の私は やはりとてもつらいこともあり  
精神的に不安定になることもありますが 
「死んだほうが楽」なんて まったく 思いません。
 
今の 私にとっては 「死」は すべての終わりを 意味します。
つらいことからも 開放されるんでしょうけど 
楽しいこと 嬉しいことを 感じる可能も
永遠に閉ざされてしまうのです。
 
「死」は 避けられない運命ですが 
その運命の日が 私を訪れるまで 喜怒哀楽 
すべてを 感じながら 貪欲に生きてやる 今は そんな風に 考えています。
 
私にも こういう精神状態の時があったということを 
わさわざ書く必要があるのか
正直 かなり躊躇しました。
 
ただ  こうして 書くことによって
誰かのお役に立つこともあればと思い 書いてみました。
 
申し訳ありませんが この件についての
一切のお問い合わせには 応じられませんので ご了承ください。
 
更新日時:
2004.02.12 Thu.

子どもへの期待
こねこたちが 小さい頃 よく言われたことのひとつ。
「しょうがいをもったお子さんに 『がんばりなさい』って 
期待するのは酷ですよ。」
 
これは とても嫌な言葉でした。
私の親心を逆なでするというか。
 
これを言われるたびに 私の心は 猛反発して 
こねこたちにいろんなことを よりいっそう
「がんばらせ」たり。
そして その後 
「私は 子どもたちに 酷なことをさせているのだろうか」
と ひどく落ち込んだりしました。
 
ただ 当時から 変わらぬ想いとしてあるのは
「あなたはしょうがい児なんだから ママは なにも期待しませんよ」
と言うのは 子どもに対して 酷ではないのでしょうか?
という 疑問でした。
 
あれから こねこたちと長い年月を過ごして 
ようやく 私の中で 考えがまとまってきました。
 
子どもに期待するのは やはり 親として当然のことだし 
何も非難されることではないと思います。
 
ただ 気をつけなきゃいけないのは
期待する方法 期待する内容ではないかと。
 
まず むやみやたらに 
「がんばりなさい。努力しなさい」
を 連発したって 子どもにしたら 
「何を がんばればいいの?」
でしょうし。 
 
だから まず 何をがんばればいいのか
決めなきゃいけないし。
そのとき その子ども個々の しょうがいの特性とか
得意・不得意を きちんと把握することが必要なんだと思います。
 
苦手を努力して克服することに 価値を見出される方も おられましょうけど 
最初から 苦手なことを課題にされても 
それだけで 子どもはやる気をなくすでしょうし。
 
ましてや 努力しても努力で克服できないの部分が しょうがいだと思うので。
それを 「がんばりなさい」と言ったら それは まさに 「酷」でしょう。
 
そして 課題が決まっても 私はこねこたちに お任せというわけにはいかず。
どういう方法で 教えたらいいのか。
あるいは いろんなツールなども使って 
どうしたら 子どもたちの がんばりをフォローできるかとか
私も考え 工夫しなけりゃなりません。
 
だから 私は こねこたちのしょうがいの特性を知るために。
そして それを あったフォローの仕方を知るために 
しょうがいについての 本やサイトを読み 勉強会に行くんだわって
偉そうに言っていますが 
それなことに気がついたのは 本当にここ最近です。
 
でも もし また
「こねこくんたちに 期待するのは 酷でしょう」
とおっしゃるかたがいたら
私は きちんと冷静に ここに書いたようなことを お話しようと思っています。
更新日時:
2004.03.11 Thu.

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Last updated: 11/09/09

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