こねこたちにしょうがいがあるとわかった時
そのしょうがいが一生なおらないとわかった時 自分のなかで なにもかにもが 崩れ去ったような気がしました。
こねこたちに 与えたかったしあわせ こねこたちとともに分かち合いたかった 喜び・楽しみ 全部が無になったと思いました。
なにもかも すべてが終わりだと思いました。
それは おとうちゃんも一緒のようでした。
野球少年だったおとうちゃんは 息子ができたら 野球をさせたいと願っていたようでした。
でも その夢は あきらめなくてはなりませんでした。
だけど 先日 おとうちゃんが 「野球を見に行こう」と言い出しました。
「こねこたちに
野球場の本物の迫力を味合わせてやりたいんだ」
初めての野球観戦は こねこたちも私たち親も楽しいものでした。
そして 思いました。
なにもかも 終わったわけじゃない。
なにもかも あきらめることもない。
こねこたちに野球をさせることは無理でも
一緒に野球を見に行くことはできるじゃないか。
粉々に砕け散ったと思った親として子どもたちとともに分かち合いたかった喜び・楽しみ。
形を変えて あるいは こねこたちとの日常のなかから また 新たに発見していけばいいんだ。
なにも 終わっていない。
なにもかも これからの日々で つむぎだしていける。
わたしたち親が こねこたちと歩んできた長い長い日々の間に 少しずつ少しずつ再生した心で やっと発見できた「親のしあわせ」です。
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